『天気の子』初日極上音響をキメて来たので感想を書きます。
自己満足の為に書く記事なので作品をガッツリ見た前提で、自分が思ったことを書き連ねるだけです。
まだ見てないよって方は見てきてください。ここでは期待に十分応えてくれる作品だとだけ言っておきます。
見てないのにこのブログを読んでネタバレ喰らった!!!!ってなるのだけは避けてほしいです。
予約で満席って初めて見ました。恐ろしや『天気の子』
[目次]
〈ネタバレ注意〉
[映画自体の感想]
まず初めに言っておくと新海誠監督の作品は『秒速5センチメートル』・『君の名は』 しか見てない程度の知識です。
好みで言えば『秒速5センチメートル』(特にコスモナウト)のほうが好きで、『君の名は』が大ヒットしたときには「まあ世間的に売れる作品だよね~」なんて斜に構えた感想を持っていた人間です。(もちろん『君の名は』も面白いと思ってます、好みの問題であって)
というわけで今回の『天気の子』はどっち寄りにしてくるのかな~なんて面でも楽しみにしていました。
そんなスタンスで見ていて「今回は半分良い意味半分悪い意味で面白い作品だなぁ」なんて思っていました。
そう、雨が3年間降り続けて冠水した東京を見るまでは!!!
ここで一気に引き込まれてしまいました。まさかそう転ぶとはね。
順当にヒナさんが帰ってきて大団円的な終わりかと思っていた。(むしろスガさんとかを考えるとちょっと可哀相じゃない?)
スガさんの「人柱一人でこの異常気象が治るなら安いもんだ」的なセリフで確かに~なんて思ってしまっていた。だって雨続きは嫌ですもの。
まあ話の展開的にヒナさんを連れ戻すんだろうけど、うまいこと万事解決!みたいになるかと思っていたので、冠水した東京を見てなにしてんねーーーーんって。
それでも尚それらに適応して暮らす人々、そしてその後のスガさんの「世界を変えてしまっただぁ?自惚れんな!世界なんか元々狂ってんだよ!!」みたいな言葉(うろ覚え)にこの作品の全て集約されていると私は勝手に受け取りました。
ここから先は思想的な話になるのでまた後で。
『君の名は』に出ていたキャラがちょくちょく出てきていたのもよかったですね。
花澤香菜と佐倉綾音が出ていた!しかも下の名前はそのままで!!
なんなら児童相談所に面会に来た時に名前が「花澤綾音」だったからもう一人は「佐倉香菜」なんだろうなってワクワクしてエンドロール見ていたのにカナ・アヤネとしか表示されなかった…
ちょろいリハーサルで婚姻届を書く会で、アヤネルが花澤さんの名前を書くみたいな気持ち悪い(褒め言葉)エピソードがあった気がするのですが、ようやく実現したんダァってオタク丸出しの感想です。誰かに伝わってほしい。
あと平泉成さん刑事役って見ると「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」の〈犯人に嫌な追い詰め方をするベテラン刑事役の平泉成〉しか頭に出てこなくて笑ってしまう 。
本田翼について前評判から少し心配していたのですが、あれはあれでありかなって思えるような感じでした。
[思想的な面の感想]
もう一度言うとこの作品はスガさんの「世界を変えてしまっただぁ?自惚れんな!世界なんか元々狂ってんだよ!!」みたいな言葉(うろ覚え)が一番ズドンときました。
人間に関する定義で好きなものとしてドストエフスキーの『死の家の記録 (新潮文庫)』で登場する
「人間というものは馴れる存在である。そして私はこれが人間を最も適切に定義していると思う」
というものがあるのですが、冠水した東京でも人々は船をバスとして活用していたり、冠水した東京という異常に馴れていて、まさしくこれだなっと。
狂ってない世界という静的なものはなくて、絶えずどこかが狂い続けていく動的な世界として捉えるのが良いのかも。
概念をちゃんと理解できていない気がしますがデリダの差延という概念を借りるなら
瞬間の世界そのものだけを認識するなんて出来なくて、経時的な世界の変容・差異を通して、世界の在り方を認識できるので認識は遅延する
ということなんでしょうか。
世界なんか元々狂ってんだよ! 結構深い言葉な気がします。
あとはヒナさんを助けたこと東京が冠水したことについて。
いわばホダカ君のエゴによって世界は狂ってしまったわけだけれども、スガさんの言ってたように人柱として捧げるのが正解なのか。
これを考える多ために局所解と大域解という便利な用語を導入します。
局所解と大域解を考える上で重要な二つのパラメータがあります。それは範囲と時間軸。
映画終盤という時間軸のなかで、ホダカ君の主観のみ(世界なんか関係ねぇ!)という範囲の、局所性の中で何をすべきかと考えるとヒナさんを助けるのはが正解(局所解)
でも日本全体で見れば助けたことは結果として多くの人が被害を被ってるだろうし、いつかホダカ君も過去の警察とのいざこざを理由にクビにされて、やさぐれてビール片手に「あの時助けなかったらヨォ…」なんてことを考える日が来るかもしれない。
そういった大域を考えるとヒナさんを助けるのは実は正解(大域解)ではなかったのかもしれない。
まあなんとなく伝わったと思いますがこれが局所解と大域解の違いです。
個人の幸福(不幸)が全体の幸福(不幸)になるのか、ベンサムの最大多数の最大幸福って本当??
なんて疑問を基点として局所解と大域解のどうやったら折り合いというものをつけられるんだろうなんてことをボンヤリと考えていてたわけです。
そんな中でスガさんの「世界を変えてしまっただぁ?自惚れんな!世界なんか元々狂ってんだよ」発言を聞いて安直にアダムスミスの国富論よろしく
「個人個人が自分の局所解を追求することによって、神の見えざる手に導かれるかのように大域解に貢献するようになっている」じゃないか!?
なんて考えたけれどこれを書いているうちに冷静になりました。
個人の局所解の結果起こったテロとかは明らかに局所解が大域解を損なっているだろって思ってしまいました。
やっぱり論理も大事だけど感情も同じぐらい大事にしたいのでこれはダメそうです。
そもそも循環論法だったり定義・条件が足りないし自分の中で定まってなさすぎる気がします。
まだそこの部分を深く詰める必要があるなあなんて思いました。
ちょうど最近自分が考えていた局所解と大域解の折り合いというテーマに、ビビッとくる作品でした。結局これを書いて思考が整理されてきたけど、まだ「局所解と大域解の折り合い」に対する答えは出せそうにありません。
ヒナさんを助けた結果東京が海に沈んだ。その事実をこの記事を読んだうえで、皆さんがどう捉えるか知りたいものです。
まあ結論を一言で言えば自分好みの作品でした。
皆さんもぜひどうぞ!!!