前回の続きです(↓前回の記事)
前回に続いて徒然なるままに今回は「文字」についてまとめていきたいと思います
最初に結論を言っちゃいましょう
「文字」は人類が手にした最初で最大のテクノロジーです
テクノロジーの定義
いやいや テクノロジーって言ったらアイフォーンとか車とかでしょ?って思った方少なくないと思いますが、ここではテクノロジーはもう少し広いものとして扱いたいです
具体的に言えば、数学とか物理とかの上に成り立つものだけではなくて、もっと人間中心的に考えて人間の生活を便利にしてくれるもの って考えましょう
とは言え、テクノロジーが果たして人間の生活を「便利」にしてくれているのか?
俺は車に轢かれたことがあるからテクノロジーは生活を不便にしたぞ とか難癖つけられるのも嫌なんで、「便利」とかいう個々人の判断によるものではなくもっと厳密に
自己を拡張してくれるもの
と言ったらいいかもしれません
具体的に言えばメガネやコンタクトは目を拡張するテクノロジー、車や自転車は足を拡張するテクノロジー、PC等は脳を拡張するテクノロジーって感じでしょうか
こうすると先ほど述べたいかにもテクノロジーって感じがするものだけでなく、衣服も皮膚感覚の拡張として含まれるように人類が作り出してきた物はほとんどがテクノロジーと言えるでしょう
見方を変えればテクノロジーは世界と自己との間の媒介、即ちメディアと言ってもいいかもしれません
今でこそメディアと言えば限られた意味でしか捉えられませんが、原義的に言えば何かと何かを媒介する中間体ですから別に間違ってはないでしょう
なんでそんな言い方をわざわざ採用するかと言えば、マーシャル・マクルーハンという人の「メディア論」に影響を受けて、自分の考えとかを混ぜて書いてるからです
これから話す薄っぺらい論でも面白いなって思えたなら、難解で重厚ですがちゃんと目を通してみることをお勧めします
- 作者: マーシャルマクルーハン,栗原裕,河本仲聖
- 出版社/メーカー: みすず書房
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原初のテクノロジーである文字
話をテクノロジーに戻しましょう
文字を人類が最初に手にしたテクノロジーと言いました
では文字という概念を有する以前の人類はどうしていたか?まあ普通に文字を使うことなく会話だけ生活していたんでしょう
それこそ自己が拡張されることなく
会話は声が届く範囲でしか成立せず、移動も歩ける範囲内に限られたといった具合に
で文字が誕生して人類はどう変化していったのか
文字というものを獲得した人間は自分の考えを時空間的に拡張できるようになりました
紀元前7000年に書かれたと思われる亀の甲羅に書かれた文字が発見されているぐらいですし
文字によって歴史が堆積されるようになったので、文字使用が始まってからが人類史のスタートだと主張するぐらいの人もいるそうです
まあ何にせよ現代の象徴的テクノロジーとされるiPhoneや車なんかは、文字の誕生によって時空間を超えた知の集積が可能になって初めて存在出来ているものである
全てのテクノロジーは文字という原初にして最大のテクノロジーを必ず根底に有している
という意味で最初の主張に繋がるわけです
文字が人類にもたらした社会性の変化
今述べたのは歴史的な変化であって、社内的にはどのような変化が生じたのか
それを説明するのに便利な言葉がresponsibilityです 辞書とかで調べて真っ先に出てくる意味的には責任性とかですかね
ほかにresponsibility=response+ abilityってのを考えると原義的には応答可能性 という意味もありそうですね
文字を手にする以前は、人間は一つの集団の中で会話をして生活していたことを考えましょう
その集団の中では誰かの発言に対して誰もが応答することができる状態です
つまり応答可能性が非常に高い状態
それに対してその会話の責任性というものは低い状態じゃないでしょうか 極端な話そんなこと言ってないと言えばバックれられるんですから
それが文字というモノが登場してからは、責任性というものが高まっていきます
過去に自分が書いた文章に対して自分が書いたという責任性の元に自己は規定されていき、過去の自分との一致性を求められる
今の国会問題なんかそれが顕著なのでは…
それに対して応答可能性というものは、会話に比べればはるかに低下しています
知らぬまに自分の発言がどこかに回って何を言われてもそれに反応することはできない
これは流石にとんでも学説だとは思うんですけど一応紹介しておくと
文字によって過去の自分との比較が発生し、フィードバック的作用が起こることに自己の乖離、崩壊が起こる 現代に見られる統合失調症などは文字の副作用的病気であるので、文字誕生日以前にはそんな人間はいなかった
なんて主張する学者もいるらしいです
文字によって促進された個人主義と統合される国家
話を本筋に戻して文字が社会に与えた影響をもう一つ もっとマクロな視点で
また文字が人類に与えた影響として感覚比率(sense- ratio)の変化が挙げられます
文字獲得以前の人類と文字獲得後の人類を比べると視覚の比率が上がっているのは明らかです
文字獲得以前は会話においても相手の顔を見て、言葉を聞き、自分が身振りも交えつつ発話する視覚と他の感覚を連携させた体験であったのに対して、現代風の会話(メール)ではほとんどが視覚領域のみで完結しています
前回の記事で昔は本を音読するのが当たり前で、黙読する方が奇異な存在と話しました
それも会話が感覚全体を使った体験だけだった時代の残滓のようなもので、印刷文化が広まってからは聴覚領域が主であった会話すらも表音文字によって視覚領域に落とし込まれて、完全に視覚のみが切り離されてガラパゴス的に強化された と解釈すると前回の記事との整合性が取れるでしょうか
視覚と他の感覚を連携させる必要のある話し言葉は発した瞬間に消えてしまうので他人と時空間を共有する必要がありました
しかし視覚のみで完結できる書き言葉、特に印刷された書物は簡単に持ち運び文字を読んで考える時間が増えたことで人々は「自分の時間を邪魔されたくない」と考えるようになり個人主義を促進する作用もあったように思われます
他方で自分が知りもしないけれど、読んでいる本を書いた人間、自分と同じく本を読んで同じような思想を抱いたかもしれない人間達との連帯感を覚えるという作用もまたあります
更には印刷されて活字となった言葉たちは正しい文字、正しい文法というものを形成するようになり、それが「国語」となります
その「国語」の教育(読み書き)という過程を経ることで「国民」が作り出される
具体的に言えば活版印刷技術登場以前の写本時代には「国語」が存在せず、本は録音機をという役割に過ぎなかったので読点すら存在していなかった
英語でも大文字小文字なんて区別も存在していなかった
日本において読点を用いよ なんて公に示されたのは明治39年(1906年)に文部省が国定教科書の基準としたとした「句読法案」らしい
ちなみに日本で活版印刷技術が本格的に用いられているのは1870年以降とされているので
流れ的にもなんとなく一致しているのでは
つまり僕らは国家が文字、特に「国語」を規定していると考えがちだけれども実はその逆で、人々が文字を共有した連帯感によって真の国家が形成されていったんじゃないの
という逆転的な見方ですね
文字数が多くなってきたので
今回のまとめ
・文字は原初にして最大のテクノロジーであり人類の転換点
・文字の登場によってresponsibilityが変化して、人々は過去との整合性を求められるようになった一方で応答性は低下した
・ミクロスケールの既存の集団(村組織など)の中では文字の作用によって個人主義が促進され集団の解体が起こる一方で、よりマクロスケールな新たな所属意識(国家に所属する国民)が芽生えた