徒然日記

徒然なるままに書いていきます 固めのものからゆるい日常まで書きたいものを

自分の捉え方|私とは何か「個人」から「分人」へ

本書はタイトルにもあるように「分人」という概念を提唱することが主な内容となっている。



「分人」は「個人」と対になる概念である。
「個人」とは英語でin-dividual 分けられないというニュアンスを持っているが、これは実は明治時代ごろに西洋から輸入された言葉であり、その考え方は現実に即していないから、新しく適切に自己を捉える概念を提唱しようということで平野啓一郎は「分人」を提案している。

そもそも「個人」という考えに対する違和感として、例えば「家族といるときの自分 」と「友達といるときの自分」が全く同じという人はいないだろう。かといって「個人」という概念に基づくならどちらかがホントの自分で、もう一方はウソの自分ということになるが、当然そんなことはない。
こういったことから「個人」という概念がいかに粗いかがわかる。

以下、本書から分人の中心的な考えに当たる部分を抜粋。

たった一つの「本当の自分」など存在しない。対人関係ごとに見せる複数の顔が、全ての「本当の自分」である。
人間を「分けられる」存在と見なすのである。
分人とは、対人関係ごとの様々な自分の事である。
分人は、相手との反復的コミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。
その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。

平野啓一郎は自分を肯定できる考えという観点で概ね分人主義を説明しているが、むしろ分人主義の真価はその先にあるように思える。
即ち、分人という考え方に基づいて、自己を決定できるのではないかという方面で。

平野啓一郎も分人の構成比率を変えることで自分のなりたいようになれるという趣旨を述べているが、その際に分人の構成比率を調整する、「自分のなりたい自分」を決するものは何なのかについては触れられていない。
これについては、つい最近出されたマルクス・ガブリエルの『新実存主義』のカバー裏にヒントが書かれていた。

1.人間は本質なき存在であるという主張
2.人間とは、自己理解に照らしてみずからのあり方を変えることで、自己を決するものであるという思想

新実存主義 (岩波新書)

新実存主義 (岩波新書)


ちなみにカバーを見てこのフレーズをみて、これだ!!!ってなって買ったはいいものの内容は論文を和訳したものだったので、実存主義に関する体形的知識がなくて肝心の中身はちゃんと理解できていない。


話を戻すと、分人を統治するメタ分人という概念を考えることで、自身の指向性を考えられるのではないのだろうか。
じゃあそれが「本質」じゃないか、と思われるかもしれないが、むしろ自身の有する無数の分人同士のインタラクションのなかで生じるのがメタ分人と考えれば、既存の分人という枠組み内でも十分に考えられる。
『新実存主義』のメッセージの2になぞらえると
自分の有する無数の分人から生じるメタ分人が、自分の分人を参照して、分人の構成比率を変えることで自己を決することができる
といえるはず。
メタ分人は「高校の友達といる時の自分」という分人と「大学の友達といる時の自分」という分人を、比較してどちらが好ましいかを判断して、分人の構成比率を変える といった具合だ。

で、問題となるのはここで出来るのはあくまでも比較でしかないということだ。
もっと言えば、ジャック・デリダの言葉を少々強引に借りてしまえば「差延」が必ず生じているし、「差延」を通してしか自己を決することが出来ない。
差延は差異と遅延を組み合わせた言葉程度の認識)

今回の例で言えば、分人の構成比率を変える(自己を決する)には、「大学の友達といる時の自分」と他の分人との比較によって「差異」を抽出する必要があるうえに、そこは「大学の友達と過ごし、大学の友達向けに分人化する」という過程から「遅延」が生じているというように。
要するに分人化に先立って、「今」の分人の構成比率を知ることは決してできない。

平野啓一郎も個性(分人の構成比率)は動的なものと捉えている。
しかし、この論法で言いたいのは
個性(分人の構成比率)は動的なうえに、「今」この瞬間の個性(分人の構成比率)を知ることは出来ず、差延を通して認識するだけ
ということだ。

分人の構成比率は、それ以前の分人の構成比率からどう変化させたかという、漸化式で常に表される。
そして結局分人の構成比率を調整するのは、何なのかという話に戻すと、これは結局自身の快不快に集約される。
この快不快も事前に完全に予測することはできないが、差延を通してなら認識できる。

そう考えると、
人間は何らかの行動から「分人化」をして、恐らく「心」とかいうブラックボックスに放り込んで快不快を判定してもらい、最も心地よい自分を目指す存在
と言えるかもしれない。

そして、そこで重要になってくるのは
快不快を判定するブラックボックスの計算機械の制御則を掴むこと

これまで述べてきたように、差延というものが必要な以上、新しい制御則を掴むには新たな体験が必要となり、自分を知る旅は決して終わることはない。

こういうと少し悲観的に思われるかもしれないけど、積極的に分人化し続ける、つまり色々な人と出会ったり、新しい領域に飛び込むことを論理的に肯定することにもなるので自分はこの考えが非常に好きだ。


まとめ
・自分を一貫した「個人」ではなく、他者とのインタラクションで生じる「分人」の集合体と捉える
・「分人」の構成比率が個性となるが、それは差延を通さないと認識できない
・「分人」の構成比率を調整するのは快不快であり、自身の快不快の制御則を知るためには「分人化」し続けるしかない



以前書いた似たような話。
cobaltic.hatenablog.com

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