ここ最近、自分の中で這いずり回っている思想があるのでこれを機にまとめてみたいと思います。
これを機に というのはコロナを機にという意味で、少しだけ期待していることがあります。
コロナの影響で社会が確実に変わりつつあるけど、個人的にはまだ小手先の変化であって根本的には変化していない気がする。
まあ一言で言えば資本主義というパラダイムをぶっ壊して欲しい。
なんでこれを書こうかと思ったかというと、自粛期間の過ごし方で、自分の兄はSwitchとどうぶつの森を買ったらしい。
それに対して母は仕事に役立ちそうな資格の勉強を始めて、兄に対しては「なんでこの期間を有効に使おうとしないのかねぇ」みたいなことをぼやいていた。
確かに成長しようとする母の意識の高さという部分は素直にすごいと思うけど、兄みたいな過ごし方をしても何も悪くないはずだ。
成長という言葉はベクトルを示すものだと思っていて
マラソン選手が足が速くなったら成長したと言えても、普通のサラリーマンが足が速くなっても成長したというかは分からない。みたいな。
成長した、ということはそれぞれが所属しているパラダイムが暗に示されるのかもしれない。
それで一番大きいのは資本主義というパラダイムだと思う。
経済的に成長することが正義みたいな思想が世界に充満しているのは間違いないだろう。
それで、コロナウィルスによって経済社会がこれまでのように動かなくなった今だからこそ、経済最優先の社会を脱却してくれないかなという思いがあるのだ。
かといってお金が無ければ、ネット回線もPCも無ければ、こんなしょーもない意見をネットに垂れ流すことすらできないというのは当然分かっている。
この資本主義のパラダイムを脱却するには、お金を使わないでも生きていけるようにするか、お金を気にしないで済むような大金持ちにならないといけないという本末転倒な結論がある以上はお金から逃れられないのは分かっている。
それでも自分が気になっているのは、資本主義というパラダイムのもとに経済が成長した果てに何があるのかということだ。
こう考えると、それが分からなくて貨幣論とかも勉強していたのかもしれない。
貨幣論から得た知見で言えば、お金があまりにもあらゆるものの媒介となっていることで、本当に求めている価値との取り違えが起こっている。
自粛期間でこの取り違えに気づく人もいたかもしれない。
経済が立ち行かなくなって、自殺者が増えるかと思われていたのに、実際は減っているのだ。
新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、家族ら同居する人が外出せず家にいることや、職場や学校に行く機会が減り、悩むことが少なかったことなどが要因とみられています。
自分は今この資本主義の社会を心の中で勝手に「螺旋上昇社会」と名付けていて、どういうことかと説明すると
確かに経済という軸で見れば上昇しているかもしれないが、それでも写像として映っている我々の心は相も変わらず、かつてと大して変わってないんじゃないかという考えだ。
お金を稼いでも、いくら経済の規模が大きくなっても、それが人々の心を豊かにしないんだったら、ここらでいいんじゃないか。もう経済成長は手打ちにしましょう。
ここらで価値の取り違えに気が付いて、あとはそれぞれの価値を追求して生きていきましょう。
資本主義というパラダイムから、それぞれ好きなパラダイムに移住しましょう。
人が何か趣味を楽しんでるときに「それ何の役に立つんですか?」「それで稼げるの?」とか言われないような社会になるのも一興でしょう。
そんな気持ちがある一方で、やっぱり人は枠組みの中でしか生きられないんじゃないかという思いもある。
サルトルが「人間は自由の刑に処されれている」といったように、自分で全てを決めていくってすごく辛いと思う。
コロナの自粛で暇すぎて何をしていいのか分からないみたいな感じで、今まで依り代としていた資本主義社会が壊れたら何をしていいのか、どこを目指したらいいのかわからなくなるのだろうか。
それでも、これを機に色んな生き方を容認する社会が拡大して行ったらいいと思う。
けど自分でこれを書いていて気が付いたのは、こういう思想があれば、どのパラダイムで生きていくかを選択する自由がある。
こう言いつつも今の自分には資本主義というパラダイムから逸脱して生きていける力も、そうまでして生きていきたいパラダイムもないことは分かり切っているので、自身を資本主義社会に組み込んでいくしかないのであった。