「享楽的に、刹那的に、利己的に」
これが今の自分の基本的な思想の中核であり、キャッチフレーズとなっております。
文面で言うとやばいやつ感がするけれど言い訳をさせてください。
かつての自分はどうせなら社会の為になるようなことしてみたい~とか漠然と思っていたけれど、大学生活で色々学んでいくうちに変化していって辿り着いた結論です。
生命科学の本*1を読んだら「生物は遺伝子を運ぶための乗り物」とか言われるし、
科学哲学の本*2を読んだら「科学と非科学の境界なんか曖昧だ」とか言われるし、
実存主義の本*3を読んだら「世界は実在しない」とか言われるし、
この世界に何も信じられる確かなことはないんじゃない、もう意味わからんってなってしまいそうになることも…別になかったですけどね。
遺伝子を運ぶための乗り物?生きてるんだからそれで良いよだし、
科学と非科学の境界が曖昧?自分は科学という宗教を信仰しているし、
世界は実在しない?それはもうどうしようもないから逆にどうでもいいよ、
って感じなんですよ。
ただそれっぽい理屈を立てて自分が正しいとか思いあがるのは止めようと。それだけの話です。
そうした思想的な紆余曲折を経て「今ここにある自分がどう感じているか」これだけは信じられるなという結論に辿り着き、そういう意味で刹那的に生きようと思いました。
そしてその刹那的に生きる上で判断基準となるのが、自分がどう感じているのか、「楽しいのかどうか」というシンプルなパラメータだけを基準にしようと思って享楽的にというキーワードになりました。まあどうせ生きるなら楽しく生きたいですし。
これだと自分勝手に生きすぎているように感じられるかもしれないけれど、実は自分は献血とか好きです。あとは高校生のころに学校の有志で東日本大震災の復興ボランティアに行ったこともあります。
なんでそんな話をするんだ、利己的じゃなくて利他的じゃん。って思われるかもしれませんが、そこも今では論理的整合性が取れるようになっています。
そういう利他的な行為(とされるもの)をする際には偽善という批判がつきもの*4です。これはもうシンプル「やらない善よりやる偽善」という一言に尽きると思っているんですけど、それでもなお自分の中で「じゃあどうして自分はそういうことをやろうと思うんだろうか」という問題は解決できていませんでした。
鋼の錬金術師15巻 ©荒川弘
結論を言うと、いわゆる徳を積みたい、人を助ければきっといつか自分を助けてくれるかもという期待があるから人を助けるだけなんだろうなということになりました。
利他的な行為だろうと純度100%の利他的な気持ちで行為するというのは自分には無理で、利己的な理由があってこそだということに気が付きました。
逆に言えば利他的な行為と自分が信じていたものも、利己的だということを認め、論理の接着剤とすることで結果的に利他的になれるというわけです。そういう意味での利己的というキーワード。
世の中なにが真の意味で良いことかは全く分からないので、利己的に生きても結果的にそれが誰かの為になるならいいじゃないか、という感じですかね。
宇宙兄弟35巻 ©小山宙哉
そういうわけでこれから働くうえでも自分は享楽的に、刹那的に、利己的に働きたいと考えています。
一笑に付されるような考え方かもしれないけれど、それでも今の自分がそう感じている考えていることは紛れもない事実なのだから。